5月の定期総会であったかキャッチボールを卒業したばかりの本間です。大してお役に立つこともなく、むしろ運営メンバーの方々や、交流先の皆様から学ぶばかりの15年でしたのに、「卒業」とはおこがましいのですが・・・。とは言え「卒業」という言葉には、来し方を振り返り、行く末をあれこれと思い浮かべるように導く何かがありそうです。
かつて、生協活動を退いて仲間と共にNPO法人を立ち上げた時は、50代初めで未だ若く、意欲もエネルギーも満ちあふれていた気がします。そこを65歳で後身に渡し卒業。次にあったかキャッチに入会した時は、岡村代表の元で自分にできることをしようと、かなり気楽な感じでした。年月は流れ今や80代。ここに至ると、行く末についての考え方は当然ながら(私の場合は)変化しています。これからの、ある意味限られた時間に、何を優先してどう動きたいのかを自分に問いかけることが多くなりました。社会的課題や政治への関心は今もありますが、そこへのコミットの仕方は、変わってくるでしょうね。体力的にも。
最近は、「生と死」とか「命」とか「人間」とかに興味がありますね、今までとは異なる意味で。いや同じかな?昔若い時分に、私と同世代の多くの若者(私も)が、読んでは論じていた吉本隆明とか鶴見俊輔の最晩年について書かれた本を読みました。あの思想家が、あの哲学者が---。
死を間近にしてもやはりフツーの高齢者とは違うなあという面と、ああ~フツーの人達と同じだなあという両面があり、人が生きてきた道程と死と向き合った時まで残っているその人の核について、つい考えてしまいました。私ごときが考えたって「それがどうしたの?」ってなもんですが。
話題はガラッと変わりますが、私は小学生時代、学校の行き帰り道で一人の時に限ってですが、自作の物語を「ひとり語り」(勿論声を出して)をする秘めたる趣味(?)がありました。長じては中学では演劇部、大学のサークルでは放送研究会、就職後の夜間はアマチュア劇団通い。そして70代半ばから地域の朗読ボランティアの活動を始めて今に至り、結構面白い。いろんな形ではありますが、好きなことは続くものですね。
